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龍澤山 大巖寺 (玄忠院)  千葉組 65

 天文20年(1551)、千葉氏六党の第一、原胤栄夫妻を開基に、道譽貞把上人が開山となり創建された学問寺であって、江戸時代には関東十八檀林の一つとして栄えた。寺伝によれば、永禄3年(1560)に堂塔伽藍が整い、鎮守として東に愛宕、西に鷲明神、北に富士、客殿の前に天照皇太神等を勧請した。この頃学寮は40余軒あったといわれ、寺領70貫
を有していた。境内の林中に大沢があり、昔から「龍が沢」と呼ばれていたので、当寺を龍沢道場(精舎)と名づけ、のち山号とした。これよりさき天文年中、下総国千葉郡生実郷のあたりを布教していた道譽上人は、かの龍の沢の水中に入り、仏すること21
日。ときに阿弥陀仏が金光を放って現われつぶさに、宗の奥義を授けたという。この霊告のゆえをもって、浄土宗では貞把上人を道譽流伝法の祖とし、当寺をその根本道場とした。
 永禄12年(1569)5月には、東国戦乱の折から領主より寺門清安のため禁制(札)をうけ、天正5年(1577)、二世・安譽虎角上人代に、胤栄より後証の為め寺領並びに屋敷等の安
堵状をもらっている。虎角上人は徳川家康とも親交があり、関東の寺院のなかではもっとも早い時期に家康と関係をもっている。この点は天正18年(1590)5月23日および25日付の家康書状、同年7月28日付の家康寺領安堵状など、いずれも家康の江戸入国以前の諸史料の存在が雄弁に語っている。原氏滅亡後、幕府の祈願寺となり、元和3年(1617)3月には寺領百石の朱印状が寄せられた。
 虎角上人のあと、雄譽靈巖上人、源譽随流上人、典譽潮流上人
など名僧が相次ぐにともなって、全国各地より修学を志す若い学徒が集まり、檀林として隆盛をきわめた。しかし、その後は増上寺をはじめとする江戸の檀林の盛況に比し、徐々に衰微の傾向をたどっていったもようである。江戸時代には県内に末寺20余ヵ寺を有する地方本山でもあった。明治2年(1869)2月には、他檀林とともに勅願所の論旨を賜っている。
 境内には、開山上人の成田山不動明王感得の故事にちなんで、成田山不動尊の御別体を祀る不動堂があり、庶民の信仰を集めている。また、最近まで境内地の森林はカワウの棲息地として、県天然記念物「鵜の森」の名で全国に知られていたが、周域の環境の変化などにより、近年姿を消してしまった。現在は往時を偲ぶ「鵜の森の塔」が建っている。なお、中興六十世・謙譽上人代に、檀林の現代版というべき「大巌寺文化苑」の建設が企てられ、淑徳大学の誘致をはじめ、仏教・教育・社会福祉の三位一体による諸事業に手がそめられ、今日にいたっている。
なお、詳細については、当寺発行の『龍澤山大巌寺』および『大巌寺文書』全五巻を参照されたい。

(「千葉県浄土宗寺院誌」(昭和57年刊)より  竜沢山 大巌寺 玄忠院 03.03.10掲載)


開   山
 道譽
開創年次
 1551年(天文20年)
現 住 職
 長谷川 匡俊
指定文化財
  
年中行事
 
事業活動
 
住   所
 千葉市中央区大巌寺町180
電   話
 043−261−2917
交   通
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